ありうる空間は建築によって探究され形になる

どう具体的に生きることができるかという問題に、より強く関わるのは絵画や文学よりも建築だと思う。建築という概念を置くと物事を広く考えざるを得なくなる。バウハウスは中心に建築を置いた。マレーヴィッチが絵画から建築に向かう時、シュプレマティスム絵画の体積システムとして建築や家具を捉えていたというのも面白い。荒川修作の変な建築。指一本入っていかない絵画をなぜこれほど高く評価するのか、みたいなことを何かのインタビューで言っていた。グロピウスのファグス靴型工場。 工場だが人間の労働や技術に尊厳を与えようとする理念が感じられる。 採光にこだわった環境づくりがある。 汚い工場で歯車として労働させられ、味気ない機械生産品にあふれた環境への反感と別の環境をつくろうとするビジョンがある。 環境変化を目指すダイナミックさがある。

東京五輪スタジアムでザハの建築、都市にプラグインされる異空間みたいな建築を拒否した日本人が求める空間の保守性と日本人の生き方は関係あるだろう。日本人が求めているビジョンが建築になるとしたら?それはどんなビジョンなのか?何も起きないこと。環境に溶け込むだけで何も起きないことが、目指されているビジョンなのかもしれない。なんか活力を奪われる空間。何もしない、対立しない、怒られない、という価値。もしその価値観で動いていると仮定したら、ほんと、つまらないなぁ。