岡倉天心の茶の本を読んでいると思うところが色々と出てくる。芸術という言葉を再解釈していくことが茶の本を読むことでできる。
茶人は芸術家であることを超えて、芸術そのものとして生きることを体現しようとした。だから、服の着方、身のこなし、歩き方にまで気を配った。人格を磨くということなのかもしれない。それはここ50年間くらいの芸術家と作品についての考え方の枠組みとは異なると思う。例えば、作家と作品(テクスト)を区別し、テクストと鑑賞者の関係に焦点を当てるような理論的な枠組みとは異なる。人間がテクストになる、というか、テクストとして生きるということ、と言えるだろうか。茶室で展開される芸術は総合的である。茶碗、湯の沸く音、生花、掛け軸、人間の所作、五感を全て使う体験だと思う。茶道の実践とは自分は無縁だけれど。作品をつくる、コンテンツをつくる、という発想ではなく、生きる術を磨くということが芸術であるという考えがあってよい。テクストとして生きるということで思い出すのは坂口恭平で、自分は千利休かもみたいな発言を動画でしていたのを覚えている。
茶の本は西洋に対して東洋の芸術観や美学を示そうとする。それも説明ではなく比喩を駆使して英語で文学的な表現を織り交ぜて書くというのがすごい。東洋思想や茶道の美学、東洋の芸術的な伝統に触れるためのヒントがたくさんある。
100年以上前だが近代という共通の前提があると感じる。まず自己があり、自己を表現し、自己を宣伝しようとする、あらゆる場所に物々交換の精神がある、西洋を追いかけて理解しようとする、そういう前提。文化多元主義といいつつ、とはいえアジアは周縁である、という立ち位置とか。ただ、岡倉天心の茶の本のスタンスがまったくアジアは周縁というような雰囲気がないのがすごいし、精神的な強さを感じる。むしろ西洋がわれわれを理解する時を甘んじて待とう、というスタンス。
自己があることではなく自己がなくなること。無限を垣間見ることで芸術は宗教になる。こういう発想も当たり前のように書かれているが、多くの現代人にとっては、何言っているの?となるような発想のようにも思う。
利休は、花を期待する人々に雪山の中の辛く苦しい場所で埋もれている芽の中にも春があることをみせる、というようなことを言ったらしい。
冷たさ/暖かさの対比的な比喩が出てきて、暖かさは人間の共感や心の交流のことを言っている、また、前者が凡作に、後者が傑作に対応づけられている。岡倉天心の茶の本では、人間性が芸術の評価基準の重要な要素になっている。人間同士の共感がない作品は科学には近づくかもしれないが芸術的な傑作にはならないという考え方がされる。
人間性というのをどう解釈するかという問題はある。21世紀の芸術において非人間性をむしろ肯定する方向はある。