アメリカの美術家ドナルド・ジャッドが書いたカジミール・マレーヴィッチについてのエッセイがある。1973年にアメリカのソロモン・R・グッゲンハイム美術館でマレーヴィッチの大規模回顧展が開かれた際に執筆された。Judd FoundationのWebサイトで読むことができる。このエッセイはマレーヴィッチの絵画の歴史的な位置付け、展覧会についての情報、マレーヴィッチに影響を与えた画家、マレーヴィッチ作品のスタイルの変遷、個別の作品の観察に基づくディスクリプション、ジャッドと同時代の他の抽象画家の制作方法や作品の特徴との比較、分析などを含んでいる。
このエッセイの中で私が興味深いと思った内容をいくつか抜粋して紹介してみる。英語圏のアーティストがどんな言葉を使って他のアーティストの作品について考え、書いていたのか。英語を読むことで発見できることがある。また、私は現在コンピューター・プログラムを用いたアート作品制作に興味をもっているので、その制作につながりそうなアイデアについても書き記してみる。
マレーヴィッチとモンドリアンの比較
ジャッドはマレーヴィッチをモンドリアンと比較する。
制作方法
まず、制作方法について。
Mondrian’s and most geometric paintings before 1940 are painted carefully and especially thoughtfully, thought about and changed some as they were being painted. This precision is part of their nature. By contrast, Malevich paints as if he had everything thought out beforehand and is just laying the areas in. Occasionally he paints over an area he doesn’t like just as casually, unconcerned about it showing through. The priority of thought and the matter- of-fact execution are part of the nature of these paintings.
ジャッドの比較分析は次のような内容である。モンドリアンの絵画は、慎重に作業され、制作途中で思考され、部分的に変更されることがあった。対照的に、マレーヴィッチの作品は、それほど慎重ではなく、あらかじめ考えられた計画に沿って、描く作業は淡々と実行されたようにみえる。モンドリアンの絵画の本質は精密さに、マレーヴィッチの絵画の本質は思考の優位と作業の淡々とした実行にあると述べている。
マレーヴィッチの制作の特徴を表す言葉として、「thought out beforehand」や「The priority of thought and the matter-of-fact execution」という表現が使用されている。手で作業する前に事前に考えておく計画性がある、思考に優位性があり作業はただ機械的に実行される、という特徴をモンドリアンの制作方法との比較により強調している。
マレーヴィッチの制作の特徴として挙げられている以上のような特徴は、そのままジャッドの制作プロセスの特徴でもある。
また、コンピューター・アートやジェネラティブ・アートのようなプログラムを使用した制作プロセスの特徴でもある。プログラムとは「あらかじめ書かれたもの」である。語源的には、pro(前に)とgramma(書かれたもの、文字)から成るのがprogramという言葉だ。ジェネラティブ・アートの場合は、絵を手で描く作業を人が行うことはもはやない。あらかじめ定義されたアルゴリズムによって描画のプロセスは実行され、絵が作成される。その実行はまさに「the matter-of-fact execution」と表現されるような、淡々とした無味乾燥な機械的なタスクの実行である。デジタルなメディアで完結しない手法を採用したとしても(例えば、ペンプロッターを使って物理的なメディアとしてペンと紙を使用したとしても)、手作業によって描かれる部分は発生しない。
しかし、プログラムを使用した絵の制作でも、ペンプロッターを使用する場合は、制作途中で人間による思考と作業の介入が可能になる。ペンプロッターの動きは機械的にどう動くか決まっているのだが、描画の停止と再開、ペンの調整、紙の調整、印刷するレイヤー選択の順序変更などは意図的に行うことができる。そこには計画外の即興的な選択が入り込むことができる。これはブラウザで描画が完結しディスプレイ上で表現される場合は難しいが、物理的なメディアの場合、絵画制作に近い方法を採ることも可能だ。
制作の方法論として、完全にプログラム的に機械的に行うか、人間の判断と作業を途中に入れるかは本質的に異なる。けれども、ここには分割し難いグラデーションがある。
- 絵の前で思考するアーティストがいる。(ウォーホルは彼を皮肉る)
- 思考は絵を描く前に終わらせて作業中は思考しないアーティストがいる。彼は他人に作業を任せることもある。(ジャッド、ルウィット)
- 思考は機械と共に先に終わらせて作業も機械に任せるアーティストがいる。(ジェネラティブ・アーティスト?)
- 思考は機械に任せ、作業も機械に任せるアーティストがいる。(生成AIアーティスト?)
ジェネラティブ・アートの方法は、モンドリアンよりはマレーヴィッチやジャッドの方法に近いが、コンピュータを使った美術制作においても、制作途中で人間による判断や作業を入れるか、全く排除するのかという選択肢は発生する。即興性の有無、その場の身体感覚と判断の有無という点で異なってくる。結局は画家とコンセプチュアル・アーティストの違いみたいな問題と重なってくるのかもしれない。
抽象表現としてのラディカルさ
次に、抽象表現としてのラディカルさについて。
His work is more radical than Mondrian’s, for example, which has a considerable idealistic quality and which has an ultimately anthropomorphic, if “abstract,” composition of high and low, right and left
ジャッドはモンドリアンよりもマレーヴィッチの方が抽象表現として急進的であると述べる。その理由は、モンドリアンの絵画は抽象的であるとはいえ、高低や左右などの人間的な(擬人的な)構成を最終的には保っているからである。また、モンドリアンの絵画はかなり理想主義的であるとも述べられる。これに対して、マレーヴィッチの絵画は近年(つまり1973年ごろまでに)描かれた絵画の中でも最も非対象的(non-objective)であると評価している。
最近、モンドリアンの絵が75年間逆さに展示されていたというニュースがあったが、それも上下という属性があるから、お笑いのようなニュースのネタになっている。マレーヴィッチは絵の向きを厳密に規定しなかった。向きを変えて展示することもあった。絵の向きを規定しないという点も抽象画としてはよりラディカルな特徴だ。マレーヴィッチのシュプレマティスムの空間には、地面がないのだから上下はない。絵の上下というのは擬人的な属性だ。
マレーヴィッチのシュプレマティスムが推し進めた対象性の排除は極端までいっている。人間の対象に対する愛着、執着は根深い。シュプレマティスムのキーワードはnon-objective、非対象性、非客観性、である。時代が進むかどうかと対象性を排除した表現がされるようになるかは関係がない。時代が進めばより純粋な抽象表現になっていくというわけではない。
以下はシュプレマティスム宣言からの引用である。
When, in the year 1913, in my desperate attempt to free art from the ballast of objectivity, I took refuge in the square form and exhibited a picture which consisted of nothing more than a black square on a white field, the critics and, along with them, the public sighed, “Everything which we loved is lost. We are in a desert… Before us is nothing but a black square on a white background!”
1913年、芸術を客観性のバラストから解放しようと必死に試みたとき、私は四角い形に逃れ、白いフィールドに黒い四角だけの絵を展示しました。批評家たちと一緒に、一般の人々はため息をつきました。「私たちが愛したすべてが失われました。私たちは砂漠にいます…目の前には白い背景に黒い四角しかありません!」
It reaches a “desert” in which nothing can be perceived but feeling.
それは、感情以外には何も感じられない「砂漠」に到達します。
対象物への愛着を断ち切る、客観性を捨て、感情以外には何もない砂漠へ。こういう表現は宗教的な次元を示していると思う。(これについてはまた別で考えないといけない。)
過去に対する現代からの不満
But at that second exhibition I had to peer into them and look through the grayed color and wonder what it would be like not gray and then wonder what the forms would be like not crabbed by the figures and trees. This is a real complaint of the present against the past even though the past has to be considered as itself.
ジャッドはセザンヌの絵画を見て、形や色が対象の再現描写に従属していなければどうなるだろうかと想像した。過去はそのときの文脈を前提にして考えられるべきだとしても、それは過去に対するリアルな不満であると言う。そのような思考がセザンヌの絵を見て展開されるところに、モダニストであるジャッドの形と色の独立性に対するこだわりが感じられる。「現代から過去のものをみてどんな不満を持つのか」。これは現代的な表現のアイデアを展開するためのよい問いかけだと思う。
優れた芸術作品はブレンドされていないスコッチのようである。
With and since Malevich the several aspects of the best art have been single, like unblended Scotch. Free.
マレーヴィッチ以降の最も優れた芸術作品は単一性を備えていた、ブレンドされていないスコッチのように。自由。
どんな作品が、良く、美しく、自由かという価値判断は絶対的ではありえないが、ジャッドはこう言い切る。ブレンドされていないスコッチという比喩がおもしろい。スコッチは飲んだことがないしどんなものか知らないので少し調べてみると、The Scotch Whisky Regulationというスコッチというお酒に求められるレギュレーションがあるらしい。かなり細かい規定である。ジャッドの作品も事前に定義されたレギュレーションによって成立していることを連想する。
Art doesn’t change in sequence.
Art doesn’t change in sequence.
芸術はシークエンスに(順序どおりに)変化しない。
モンドリアンよりマレーヴィッチの方がラディカルだと述べた後、書かれている文。
シークエンスではない芸術の展開の事例。ザハ・ハディドは1976年から77年に「Malevich’s Tektonic」という建築のプランをつくっている。ロンドンの橋の上のホテルの建築のプランである。ザハはマレーヴィッチのアーキテクトンを解釈して建築に展開したという。「ロシア・アヴァンギャルドに関する最もエキサイティングなことは、彼らのグラフィックが面白いとかいうことではなくて、彼らの実験がまだ終わっていないということです。結論が出ていない。」ザハの建築のアイデアやこのような言葉は、芸術作品をつくり出す運動が、歴史上で一直線の始まりや終わりを持たないことを示している。何十年も経て、ある時、別の時代の人間がそこに何かを見て発展させるということが行われる。
例えば、フォーマリズムは20世紀で終了し、やることがなくなったのか?と問いかけてみる。コンピューターやAIのようなテクノロジーによって、まだ実験されていない形や空間がつくられる可能性はあるのではないか?そう問うこともできる。前衛としてのフォーマリズムが終わったとしても、そこにある運動、プログラムみたいなものを継承する方向がありうるかもしれない。機械による非人間的なラディカルな抽象表現を行うジェネラティブ・アートは2次元でも3次元でも考えられる。意味だけ重視していても形や空間をつくれない。過去に対する現代からの不満という視点から別の可能性を想像してみる。
参考リンク
https://juddfoundation.org/wp-content/uploads/page/writing/Malevich_1973-74.pdf
https://designmanifestos.org/kazimir-malevich-the-manifesto-of-suprematism/