新宿の伊勢丹の6階でアンディ・ウォーホルの作品が展示されているのを見た。百貨店のギャラリースペースにいる客もアンディ・ウォーホルの作品と認識して会話しているのが聞こえてくる。しかし、実はそれらの作品は、サンデー・B・モーニング版と呼ばれているシルクスクリーン工房の「職人」が刷ったバージョンだった。わずかにインクの色味が変更されており、ウォーホルの指示も許可もなく制作された作品として説明されていた。
誰がその作品を実際に生産したかは作品の価値とも認知のされ方とも切り離されている。あるのはブランドであり、ブランドを規定するスタイルである。そして、描かれるモチーフもブランドものの香水や車である。
ホリエモンがカメオを公開し、そのデータがSora2による生成AI動画で使用され、さまざまなアカウントが動画を生産し、TikTokで流通する。そういう事象と似ている、というかほとんど同じだ。
ウォーホル作品のサンデー・B・モーニング版と同じ会場に展示されているのは、村上隆のドラえもんの作品、ジェフ・クーンズのロブスター、草間弥生の版画、奈良美智などだった。他には、リー・ウーファンの和紙っぽい厚紙に黒い顔料が擦り付けられた書のようなドローイングがあったが、それは全体の中では異色な作品だった。また、ろっかくあやこという作家のダンボールに描かれた奈良美智の絵に似た作品があり、一千万円以上の価格がついていた気がする。
網点の質がウォーホルとムラカミで異なる。その差は何か。シンプルに言えば、ウォーホルはザラついていて荒く物質的ノイズがあるが、ムラカミはツルツルしていて精密でノイズがない。リヒテンシュタインがブラッシュストロークを印刷メディアの上のイメージに置き換えたように、ムラカミはウォーホルの少しざらついた網点の質感をデジタルメディアの上のイメージに置き換えている。
マリリンの絵は版が同じであり、よって構図が同じであるが、配色によって強調される部分と意味性に変化が出る。具体的には唇の部分が配色によって強調されることで絵の意味性が変化しているようにみえる。同じ型の反復のプロセスの中で、色の操作のみで違う意味をつくっている。
同じフロアの別の店では、ディズニーのキャラクターを描いた絵が売られており、また別の場所では、高級チョコレートのブランドが集まったフェアが開催されていた。
百貨店という空間の文脈で資本主義を主題にしたアート作品が配置されていると、なぜ作品のモチーフがドラえもんであり、ロブスターであり、シャネルの香水なのか、という意味合いが直接的に感じられた。つまり、ファッションブランドの店舗のディスプレイやそこに配置されるオブジェと、資本主義を主題としたアート作品はほとんど同じである。文字通り、百貨店の同じ平面上にあった。百貨店に置いてあるモノと同じモノにアートがなろうとしている感じ。ブリロボックスで行われているような商品のシミュレーションの延長線上にある。商品への擬態、もっと純粋にお金への擬態。
この先に来たのが、株や仮想通貨のようなオンライン取引されるバーチャルな商品・資産にアートがなろうとする流れだ。それがNFTアートだったり、アート系メディアによるイーサリアムのようなブロックチェーンのシステムそのものへの注目だったりしたんだろう。
お金がどう進化しようとしているか、あるいは、その先でどう消滅しようとしているか。そういう問いが浮上しているのが現代だと思う。