マインドフルネスは資本主義のイデオロギー的補完として機能する

スラヴォイ・ジジェクは仏教について資本主義のダイナミズムがもたらすストレスに満ちた緊張に対する解毒剤でありながら、実は資本主義の完璧なイデオロギー的補完として機能すると述べる。そして、現代の特徴として、狂乱的リズムで自己再生産するグローバル資本主義と科学的世界観の2つを挙げ、どちらにも適切に、有効に対処できる主観的立場が仏教ではないか、仏教人口の増加はたんなる流行現象以上のものではないか、と問いかける。

人びとは今日、科学技術の進歩とそれに伴う社会の変化に、もはや心理的についていけない。とにかく物事が速く進みすぎて、ある発明品に慣れる前に、もっと新しい製品があらわれるため、そうした進歩を把握するのに必要な「認知地図」を描くことがだんだんできなくなっている。道教や仏教に頼るのは、古い伝統に絶望的に逃げ込むよりも有効な解決法であるように見える。科学技術の進歩と社会の変化の加速するペースに追いつこうとするのはやめて、進行している事態を掌握しようという努力そのものを断念し、いっさいを現代的な支配論理として捨て去るべきだ。そして「みずからを解き放ち」、ひたすら漂いつつ、加速する進歩の狂気のダンスに対しては内的な距離と無関心を保持すべきだろう。これらすべての社会的・技術的激変は仮象の実体なき増殖にすぎないことを見抜くべきだ、云々。こんなふうに書いてくると、「宗教は麻薬だ」という悪名高いマルクス主義の常套句を復活させたくなってくる。「西洋的仏教」の瞑想の道は、精神的健康の外見を保ちつつ資本主義のダイナミズムに全面的に参加する、おそらく最も有効な方法だろう。

スラヴォイ・ジジェク,『事件!—哲学とは何か』, 鈴木晶, 河出書房新社, 2015年, p.75

たしかに、市場では瞑想が宗教色を脱色した精神的な健康法のようなものとして紹介される。瞑想で集中力が高まり生産性が向上する、といったことがメリットとしてアピールされる。また、例えば Googleの社員がマインドフルネスを休憩時間に実践する動画がYoutubeに上がっているのを見たことがある。ベトナムの禅マスターであるティクナット・ハンを招き、社員は食堂で黙って食事に集中し、行列になってゆっくりと歩く。資本主義のダイナミズムに飲み込まれて「凡夫のゲーム」をプレイすることから抜け出るために瞑想があるべきなのに、瞑想はこのゲームに役立ちますよというプレゼンテーションになる。「西洋的仏教」とはまさにマインドフルネスのことだろう。マインドフルネスがグローバル資本主義を補完するイデオロギーとして機能している、その具体例がまさにこの動画だ。

実際この動画を久しぶりに見返すと、解毒の機能が期待されていることがよくわかる。瞑想で息を吐く時、過去、未来、すべての計画を解放するのだという。資本主義は未来の計画のことばかり考えさせるので、それをリセットするメソッドとして採用されているのかもしれない。

例えば、生成AIは次々に新しいサービスが進化しながら次々に登場し使い慣れる時間も確かにない。人間が適応できる速度をもう超えている。

瞑想は生身の人間として現代の環境に対処しながら生きるための方法として有効だが、結果的に資本主義に全面参加してしまうことを助けているのは、どうなんだというのはある。

原始仏教の根本的な規範の1つ、私有財産を持たないこと。これを導入するところまではいかない。修行者は牛を飼わない、家を持たない。思想的に資本主義と根本的に対立するのが所有の否定だろう。しかし、実際に現代社会で所有を放棄するにはかなり困難がある。