プレイヤー・ピアノ

『プレイヤー・ピアノ』というカート・ヴォネガット・ジュニアによる小説がある。読んではいない。読んでみたい。『サイバネティクス全史』の2章に出てきた。1950年~60年頃、コンピューターがまだ主に軍事や産業に使われていた頃の話がされている中で、『プレイヤー・ピアノ』について触れられた。自動演奏ピアノ、それがパンチカードで制御されているというイメージ。人間が機械に置き換えられていく社会のメタファーのようだと思う。人間らしいとされる仕事が機械や発達したコンピュータの知性によって行われるようになる。

この本のタイトルは、自動演奏されるよう改造されたピアノのことを言っている。幽霊が弾いているかのように、巻物に記録された孔のパターンで制御される。サブタイトルは近未来が見えることを約束していた。「来るべきエレクトロニクス時代のアメリカ」。

幽霊が弾いているかのように、という比喩はなにか触発されるものがある。ジェネラティブ・アート、コンピュータによって描かれた絵とは何か?あらかじめプログラムされた形式があり、それが反復運動をする。電子計算機の場合はパンチカードではなく物理的には電子の配列のパターンにすぎない。それが出力される絵を規定している。データとプログラムに基づく出力に、生命はないように思える。自動演奏ピアノに生命はない。自動で絵を描くプロッターに生命はない。死んでいる。しかしそこに幽霊という言葉で表現されるような、半分生きた感じがある。その質感とはなんだろうか。例えば、タブレットにペンツールをつかって手で線を引く。ベクター形式として記録される線データが身体の運動によって生成される。そのデータを拡大し、ペンプロッターで描かせる。機械で描くためにそのデータは翻訳される。プロッターは何度でもその動きを機械的に反復して絵を生産することができる。ペンや紙の種類はなんでもいい。あるのは線データ、線データの機械的な解釈だ。

機械が生成するイメージが反復されるという現象が1950年代頃からテーマになっていたのかもしれない。プレイヤー・ピアノというメタファーもそうだし、例えばアンディー・ウォーホルの作品はその現象そのものと言えるかもしれない。幽霊を生成している作品。とくに死者の画像をモチーフにした絵はそう。機械的な生産という構造が幽霊的なイメージを生む。

幽霊とは何か。この問いに興味が出てきた。