まず必要なのは徹底的な価値観リセット。
これは自己批判でもあり日本のアートに関する言語的な環境、日本の美大の環境についての批判でもある。
ざっくり、この区別は18世紀ヨーロッパの美術アカデミーの価値観にみられたが、19世紀末から20世紀初頭のアーツアンドクラフトやデステイルやバウハウスにより、この区別を統合するアプローチがとられた。意図的に境界を曖昧にした。グロピウスは芸術家と職人の高慢な区別を廃止すると主張した。技術発展した近代社会における美学や造形をより包括的に考えていた。他方でこれを積極的に区別する表現主義、フォーマリズムがある。ポップアートも意図的な応用から純粋への転換をしている。1960年代から70年代にはおそらく伝統的な純粋芸術の自律性を批判する方向がまた強まりつつ、純粋芸術はそれはそれで文脈が維持された。けれども伝統的な純粋芸術はそれだけで社会の中で価値を維持できず、多様な形式に分散し1980年代以降の現代美術と呼ばれるジャンルが形成された。そうなると伝統的純粋芸術やアメリカ型フォーマリズムからは意図的に排除されていた実用性、社会的有用性、日常性が再評価され始めた。誰でも芸術家、社会的な協業は芸術、料理してご飯食べるのは芸術。あるいは現代思想とつながって言説性、社会やアイデンティティを批評する機能を自らの価値とした。そして伝統的純粋芸術であった絵画は資本主義システムに組み込まれ、生産流通消費の環境が整備された中で、現代インテリアデザインに姿を変えて復活したり、ゾンビ純粋絵画として21世紀を徘徊したりしている。
日本では純粋芸術と応用芸術の区別は明治期に輸入されヨーロッパの美術アカデミーの制度、考え方をベースに近代的な=西洋的な美術学校がつくられた。その後、アーツアンドクラフト、デステイル、バウハウスのような近代デザインと純粋芸術を統合するような動きがあったのか?というと、わからない。あったのかもしれないがそんな話はあまり聞かない。21世紀でもこの区別は維持されており、いま考えるととても偏ったどうでもいい価値観だが、日本の美大はファインアートとデザインは価値基準が異なっており、アートはアートで閉じすぎており、しかもこの区別を強化する表現主義的な傾向やフォーマリズム的な傾向に、毒されていた。
環境は恐ろしい。大学に入る前の美術予備校の時点でこの選択が行われる。
デジタル技術•コンピュータ•インターネット•AIが形成する現在の環境を前提としないデザインやアートや建築や文学はすべて20世紀OSの旧型表現だ、と断言してしまってもよいと思う。現代のテクノロジーが可能にした社会における美学やスタイルがあると仮定できないか?この仮定そのものが、進歩は良いというモダニズム的な思考なのか?いや、単純に技術的な前提が変わり、生活形式も変更されたのだから、それ踏まえた表現が出てくるし、そっちに行くべきと思う。それをみたいし。21世紀OSで行きたい。インターネット以降の、とか、AI時代の、とか、当たり前すぎて、それをいうことに独自性や差別化の効果は一切ない。
大学出て仕事でITの世界に入ると美大の図書館にプログラミングやデータベースの本がなくグラフィックツールの本ばかり並んでるのに気づき、情報の偏りをすごく感じた。巨大なフィルターバブルというか。
また、メディア・アートっぽい表現や人の方が、その点開けているし、純粋芸術の末裔としての現代美術の閉鎖的な文脈の内側にとどまってなくていいと思う。