こだわりの肯定と否定

ひとが何か或るものに依拠して、「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と〈真理に達した人々〉は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

『ブッダのことば—スッタニパータ』, 中村元訳, 岩波書店, 1984年, p.179 七九八

これは自分の思考についての反省だが、「〇〇はつまらない」という言葉を使うときは注意しよう。自然に使う言葉ではあるが、いろんなケースがある。

Aはつまらない。なぜなら私にはAがわからないから。

Aはつまらない。なぜなら私はAをつまらないと思いたいから。

Aはつまらない。なぜなら私はBをおもしろいと思いたいから。

Aはつまらない。この価値判断の基準だと「Aはつまらない」と判定されるから。

客観的には世界につまらないものとそうでないものがあるわけではない。人間の認識を通すからその判断が行われる。人間にはこだわりがあるからその判断が行われる。

仏教はこだわりに敏感でその否定の仕方が極端である。だから「Aはよく、非Aはよくない(=つまらない)」のような判断の裏に、欲望と執着を指摘する。それは執着だからそんな思考にこだわるなというのが仏教の諭し方である。

何かをつまらないと言うにしても、自分の欲望と執着については自覚的になるべきだ。その何かは負の感情と結びついているのかもしれない。その何かはそこまでして執着するようなものなのか、もし執着であればどう切り離すのか。余計なこだわりなら捨てていきたい。

しかし、こだわりがあるから価値観がつくられる。これはたぶん正しい。こだわりを仏教的に否定的に表現すると執着になるが、科学ではなく芸術とか創作の分野では、最終的には価値観の根源はこだわりと言うことになる。歴史もどんな歴史を語るかは語り手のこだわりに基づいている。価値判断の究極の根拠はなく、欲望、無根拠な享楽に基づいている。

価値判断を含む議論は自我と自我のぶつかり合い、せめぎ合いであり、なにをよいものとしたいのか、という意思に基づく行為で、闘争的な活動に関わっていると思う。つまり揉めるってこと。

以下の2つの声がある。

「価値判断は欲望をもとにしたこだわりでしかない。それを自覚して自分の価値判断にこだわったりするのはやめるべきだ。」

「価値判断は欲望をもとにしたこだわりである。こだわりにより価値観が形成され、その価値観をベースにした議論や制作が可能になる。自分のこだわりを大事にすべきだ。」

これは自分のなかにあるんだが、どちらの声を聞くか、この投稿で結論づくわけではない。ただ、不要なネガティブなこだわりは自分で自覚して解消していけるようにしたい。